築地でええじゃないか! かわら版

築地市場が豊洲に移転して5年。卸売市場が支える消費者と商店街を守るため、東京都とゼネコンの再開発事業の動向をウォッチ。

ほかの市場はどんなとこ?/旧・浦安魚市場

遅かったですね。

浦安魚市場は1953年開設・2019年3月、築地と時期を同じくして閉場となりました。

あっというまにマンションが建ち、今はサミットです(東西線浦安駅北口)。

首都圏の漁師町の産地市場。卸と小売の両方をしていたそうで、地元の評判もよかったようです。

周辺にかすかに残るのはこんな痕跡。あと、街には佃煮屋さんが多いのと、海鮮丼の店も多数。

しかたないので、境川に沿って海のほうへ。境川は、水運に使われていた埋め立て前の風情を色濃く残しており、文化財の豪邸(網元?)も。

路地の多い古い街並みが突然、区画の大きな整備された街に変わると、そこからは埋立地になります。ちょうどその境目、市役所の手前にあるのが浦安市郷土博物館(猫実1-2-7/月曜休館・入館無料!!)。

筆者は実は嗅覚が鋭くて、この大きなコンクリの建物の近くに来たときに「貝を甘辛く煮ている匂いがする!」と感じたのでした。はたして建物の入り口の方に回ると、併設カフェの人気メニューが「あさり丼」でした。この資料館の楽しいところは、それだけではありません。

この驚きの屋外展示「浦安のまち」。境川からほんものの水路も引きこんでいます。

この「船宿」は新築ですが、船や何軒かの家は市文化財住宅の移築。

さらに、漁船の焼玉エンジンも展示されていて、ここから館内に戻ると、ベカ舟の建造実演コーナーです。もちろんほんものの船大工さんがほんものの道具で実際のサイズで作っています。

なんとミニ水族館まで!

 

浦安は魚だけでなく、浅瀬で貝を採り、海苔の養殖が盛んでした。市役所のあるあたりは、昔は養殖場だったわけです。

それが埋立地に変わったきっかけが、1949年のキティ台風の大被害。

それに続く1956年の「黒い水事件」。東京湾の公害事件として名前は知られていますが、実はとんでもない大騒ぎであったそうで・・・(資料館の展示では非常にわかりにくいのです)。これ、市場ができてから3年後ですね。台風被害から立ち直って、これから、というときに第二の災害が起きたわけです。

「黒い水事件」またの名を「本州製紙事件」というとおり、江戸川上流の本州製紙の工場廃水の事件でした。この汚水が江戸川から東京湾に流れこみ、4月に浦安の漁場の貝が大量死。漁協がさっそく抗議を始めるも、本州製紙の対応がひどすぎる。「新しい機械を取り付けるから(しかも取り付けまでの間の操業も停止しない)」「河川に流れ込めば薄めるので大丈夫」って、今の原発汚染水と同じ理屈じゃないですか!

国会に陳情までしても、工場側は強気に操業を続け、6月に漁協組合員800人が押しかけると、工場は門を封鎖し、汚水を目の前で排出し続ける。ついに暴動発生、機動隊と乱闘、という騒ぎに・・・

[参考・浦安サンポ/浦安の歴史]

http://urayasu-sanpo.com/02/accident01.html

 

その結果、工場排水の規制法ができるなど、当時日本中で起きていた公害問題とそれに対する対策法のひとつにはなったのですが、一度汚染された海はそう簡単には戻らない。

(殺伐とした話になりましたので、浅瀬の模型展示をどうぞ)

 

そして町(当時は浦安町)を二分する「漁業権放棄」が翌年には提案されます。一度汚され、漁獲も評判も落ちた漁業をそのまま続けるのか、海を放棄するのか。漁協は維持派の候補を立て、町長選を戦いますが、相手は埋め立てて京浜工業地帯を作ろうという巨大企業です。

そして五井や木更津などの周辺で先行して漁業権放棄と埋め立てによる工業化が進み、東京湾の汚染も進み、いやおうなしに漁業は縮小していきます。

利権にまみれた政治家たちが「一度放棄しても戻れる」だの、高額の補償金を提示したり(実際には減額される)、テーマパークを誘致して「街ににぎわいが」だのと、なにかどこかで聞いたようなことばかり、いや、こちらが先例なので、いまだに利権屋たちは同じことを言っているわけです。なお、こちらの「テーマパーク」は誰かが口から出まかせた「食のテーマパーク」とは違って、舞浜に実現したアレです。

そうして1971年、ついに漁業権全面放棄、東京などの鉄工所が移転する「浦安鐵鋼団地」に。

「時代の流れ」「近代化」という名で、漁業も、市場も失われていきます。

しかも50年前から、いや、それ以前から同じ手口で、その「開発」「進歩」はほんとうに必要だったのか、ということが検証されないまま、同じ方向につき進んでいるのです。工業技術は進化しているかもしれませんが、「開発」だけしか考えつかない発想は、まったく進歩がありません。

浦安で採れた魚介は、浦安市場だけでなく、築地にも運ばれ、余った分は「銀座の路上で行商」していたそうです。今、有楽町の交通会館あたりでも農産物の「マルシェ」をやっていますが、それよりはるかに新鮮で「顔の見える」流通があたりまえのように存在していたわけです。

少なくとも、この点においては、私たちの街は豊かさを失っているのではないでしょうか。